初期宇宙と素粒子物理

1929年、ハッブルはいろいろな銀河の速度を観測し、遠い銀河ほど我々から速く遠ざかっているといういわゆるハッブル則を発見しました。その法則から、宇宙は定常的なものではなく一様に膨張していることが分かり、人類の宇宙観 は大きく変わりました。ガモフは、この膨張宇宙を遠い過去にまで遡ると宇宙は今よりもずっと小さく高温高密度ガスの状態であったとするビッグバン宇宙モデルを考え、それに基づく宇宙初期の元素合成の理論を発表し、また初期の熱い火の玉の発した光は宇宙膨張と共に長い波長のものに変わるため、現在の宇宙が電波(マイクロ波)で満たされていることを予言しました。この電波は宇宙マイクロ波背景放射(Cosmic Microwave Background: CMB)と呼ばれ、1965年にベル研究所のベンジアスとウィルソンによって発見されます。また、観測される宇宙の水素やヘリウムなどの軽元素の量も、ビッグバン宇宙によって見事に説明され、ビッグバン宇宙は宇宙の標準理論として確立します。

この宇宙マイクロ波背景放射は、近年衛星による観測WMAP(右図)によって精密に調べられました。背景放射は宇宙のあらゆる方向からほぼ一様に届いていますが、10万分の1程度で不均一になっています。下の図はこの不均一を強調して表したものです。これは宇宙が現在の1100分の1の大きさの時代の密度の濃淡を表しています。物質の密度が濃いところはより大きな万有引力で互いに引き付けあうためさらに密度を増し、この不均一は宇宙の膨張と共に成長します。そしてやがて、銀河や銀河団といった宇宙構造が出来て来ると考えられます。WMAPの宇宙マイクロ波背景放射の観測は、さらに宇宙全体のエネルギー密度の量を精度良く導き、宇宙の年齢が137億年と定まりました。

ビッグバン宇宙モデルでは、初期宇宙は非常に高エネルギーの光とクォークやレプトンといった粒子とそれらの反粒子が絶え間なく反応しあう高温の火の玉の状態であったと考えられます。この初期の状態を明らかにするためには素粒子物理について知らなくてはなりません。我々は、加速器実験によって素粒子の標準理論を確かめていますので、その程度のエネルギー状態までは初期宇宙を遡ることが出来ます。以下に説明するように、ビッグバン宇宙には根本的な謎がいくつかありますが、それらはどれもより初期の宇宙の成り立ち方に関わったものです。したがって、これらの謎を明らかにするには、標準理論を越えた素粒子物理の解明がその鍵を握っていると言えるでしょう。

第1の謎は、宇宙全体の物質量の問題です。物質のエネルギーはほぼ原子核の質量が担っているので、通常核子の総称であるバリオン数の問題と呼ばれます。 初期宇宙には粒子と反粒子が対生成・消滅を繰り返していたわけですが、宇宙が膨張し温度が下がると対生成が起こらなくなり、光子と同数存在していた粒子・反粒子はどんどん消滅してゆきます。実際、現在の宇宙のバリオン数は光 子の100億分の1程度の小さいものですが、問題は宇宙のどこにも反粒子が存在しないので、最初からクォークは反クォークよりも100億分の1程度多かったとしなければ宇宙のバリオン数が説明できないことです。原理的には、粒子と反粒子の非対称性はCP対称性の破れによって生じますが、標準理論ではバリオン数を説明できないと考えられており、何か標準理論を越えるものが必要なのです。

第2の謎は、宇宙の暗黒物質の正体とその量です。暗黒物質の歴史は古く、1933年ツビッキーが銀河団中の銀河の速度の観測から、宇宙に光を発しない大量の物質があることを示唆したのが最初です。以来、銀河の回転速度、重力レンズ効果など、さまざまの観測から確かに暗黒物質の存在を裏付ける証拠が示されています。現在宇宙マイクロ波背景放射の観測などから、バリオンのエネルギー密度は宇宙全体のエネルギーの約5%、暗黒物質はその5倍の25%である 分かっています。 暗黒物質は、光を発しない即ち電気的に中性でかつ安定な粒子でなければなりません。ところが、我々の知る素粒子の中に暗黒物質の候補が無いのです。再び、素粒子の標準理論を越えるものが必要です。今、最も有力な暗黒物質の候補は超対称標準理論に現れるWIMPと呼ばれる重い中性粒子で、その探索が進められています。またLHCでは実験的にWIMPを作り出すことが出来ると期待されています。

第3の謎は、宇宙全体のエネルギーの問題です。質量とエネルギーは等価 (E=mc2)なので、エネルギー密度が大きいほど宇宙を収縮させる重力の効果 が大きくなります。そして、ある臨界密度を越えると、宇宙はやがて膨張から 収縮に転じることが分かります。WMAPの観測によって明らかになったエネルギー密度は丁度この臨界密度に等しいものなのです。実は、この様な宇宙を実現するためには、その初期の莫大なエネルギー密度が10の何十乗分の1の精度で調整されていなければならないのです。この問題は、1981年に佐藤やグースに よって提唱されたインフレーション宇宙によって説明されるので、WMAPの発見はインフレーション宇宙の証拠であるとする科学者もいます。インフレーショ ン宇宙は、宇宙がビッグバンの極々初期に非常に高いエネルギーで加速的に膨張したとするモデルです。残念ながら素粒子の標準理論や大統一理論では、インフレーション宇宙を説明できません。やはり何らかの拡張が必要なのでしょ う。

第4の謎は、暗黒エネルギーの正体です。物質の間には重力が働くので、宇宙 の膨張は必ず減速します。インフレーション宇宙はその例外でした。しかし近年、非常に遠い天体(超新星爆発)の観測によって、宇宙がわずかに加速的に膨張していることが報告されました。この加速的な膨張の原因は全く分からな いので暗黒エネルギーと呼んでいます。しかもこの暗黒エネルギーの密度は WMAPの観測結果とも一致しているのです。もし暗黒物質が何らかの未知の素粒子と関係しているとすれば、その素粒子の質量はニュートリノよりもずっと小 さく、重力しか感じないという性質のものと考えられます。もしくは、アイン シュタインの相対性理論が変更をさまられているのかもしれません。 このように、ビッグバン宇宙は近年の観測の進展によって急速に多くのことが分かってきました。しかしどうしてそうなのかを理解しようとすると、素粒子物理と深く関わることを感じてもらえたでしょうか。