合格発表の季節、甥っ子が合格したと電話をくれたり、知り合いのお子さんが高校に受かったと聞いたり、キャンパスの掲示板の前では歓喜の声が上がる。そんな中、京大に合格したというメールをある高校三年生から受け取った。
一昨年の秋に高校時代の担任から、素粒子論の研究をしたいという生徒から進路について相談を受けている、というメールが届く。ご両親が就職について心配されていて理学部よりも工学部へ進学して研究することを望んでいるらしい。高学歴ワーキングプアが話題になる昨今、親としてはもっともな心配かなと思った。
恩師への返事に、素粒子論で学位を取っても何かで食べてはいける、高校生が博士になる十年先のことはわからない、というようなことを書いた。彼がその返信メールを参考に物理へ進むことを決めて親とも話をつけたと聞いたときには少し責任を感じたが、希望の進路に進めたことを知りほっとしている。
若者は自分が進みたいと思う道を自分の足で歩んで行くべきだと伝えたくて、返信メールがつい長文になってしまった。何かをしたいという気持ちに親だろうが蓋をすることなんてできない。
もちろん、様々な制約があるからいつも自分の思い通りに生きられるわけではない。でも、実家の寺を継ぐ必要があった僕の知人なんかは宇宙論の研究を続けたくて、結局、お坊さんと大学教員を掛け持ちでやっている。二足のわらじは大変だろうと思うが、もやもやした気持ちを残したままにしていれば悔やむことになったろう。
湯川さんに憧れて素粒子や宇宙を研究したかっというシニアの方から頂いたメールには、人生に悔いなしとしながらも、「だがしかしです、例えるなら、初恋がかなわず、その後他の女性と十分満足な人生を送っても、何かの折にその女性に出くわせば、つい心がざわめくじゃあないですか」と、今の心境が吐露してあった。佐藤文隆さんの言葉を使えば、何を言われたって人間はもよおす、ということなんだろう。ほうっておいたって何かに気持ちが高ぶるのだ。
そんな気持ちに合理的な判断で蓋をしたところで、若者の長い人生の中でいつかは感情が溢れだしてくるに違いない。たった一人の自分、一度きりの人生なんだから、やりたいことができるならば、その道を進むべきなのだ。