秋、九後さんに奈良で集中講義をして頂いた。演算子形式に基づくゲージ場の量子論についての講義で、ユニタリー性、ヒッグス機構、閉じ込め現象が系統だって理解できることに学生たちは感じ入っていたようだ。僕も学生時代の講義を思い出しながら、みんなと楽しい時間を共有することができた。
懇親会場の居酒屋で何の話題のときか、素粒子論はあたまの悪い人にもできる、という話を九後さんがしたように思う。為せば成るという程度に思ったか、アルコールに浸ったあたまでは深く考えなかった。
そう言えば益川さんが、研究というのは陸上競技場のトラックでグルグルと競争しているようなもので、周回遅れでも先頭に立てば良い、というようなことを言っていた。益川さんの本のどこかにも書いてあったと思う。あたまの良い人は物事がすぐに理解できてしまって、その時点での研究にさっさと見切りをつけて先に走って行ってしまう。でも、重要な問題というのは、難しいと諦められていたり、単に見落とされていて、あとに残されているものをじっくり考えてこそ見えてくるものがある。そういう意味では、理解の遅い人が分別がない分だけ粘り強く考えることとなり、あたまの悪い人の方が研究に向いていることになる。益川さんは考え続けることの大切さ、研究する上での姿勢や心構えについて説いていたのだろう。
寺田寅彦の「科学者とあたま」を読むと、益川さんと九後さんの言っていたことがそのままに書かれている。「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題が真であることに肯かされる。寺田寅彦は最後に、これを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう、と言う。そうなんだろうと思う。